ふたりのレシピ?サグカレー

「お父さん、今どこにいるの?」

椎名ニキと父親との會話は、いつもこの言葉から始まった。

攜帯電話という小型の電話機を使っての通話だ。故郷にはなかった見慣れないそれを、ニキは隨分器用に使いこなしてみせる。俺は未だ見慣れないのだけれど、都會ではニキくらいの年頃の半數(shù)くらいは既に個人で所有しているものらしい。これが『コウコウセイ』というものになれば、ほぼほぼ持っているのが『普通』らしいのだ。

故郷とは何もかもが違う。これが故郷にあればどれだけ便利になるだろう、と思ったが、書物で調(diào)べたところ専用の電波塔が必要なようだから、あの場所に持って行ったところでガラクタ同然になるに違いなかった。

ニキは親と離れて暮らしている。それは親の何かしらの失敗に起因してのことらしいが、それを詳しく聞いたことはまだなかった。天城燐音は椎名ニキをお腹いっぱいにして幸せにするという誓いを立ててこそいるけれど、それを理由に他者の心の中を無遠慮に踏み荒らすのは阿呆のすることである。──というのは、踏み込むことのできない自分の意気地のなさを誤魔化すための方便でもあるかもしれないが。

「……インド? いいな~」

電話口に、ニキは「カレー食べたい」と小さく呟いた。

ニキは親と電話をする時も部屋を出ない。そして俺を部屋から追い出しもしなかった。親子間の會話を聞かれることに特に抵抗もないようで、普段通りの生活をしながら電話を受けている。今は宿題の途中に來た電話に夢中になって、手元がおろそかになっているところだ。會話しながら時折筆記具をクルクルと回すのはなんなのだろう。なんらかの『まじない』なのだろうか。綺麗に『8』の字を描く穂先が気になって、俺も読み途中の本に集中しきれないでいる。

ニキは気にしていないのだろうが、ニキの両親との會話をこうして聞いているのは盜み聞きをしているようで妙に落ち著かない気分になった。電話口から漏れ聞こえるニキの両親の聲も俺の耳に屆いているからだろう。故郷では俺と父上の會話を民に聞かせることも早々なかったから、親子間の親し気な會話というものになんだか勝手に居た堪れない気持ちを抱いてもいる。だが、再三言うようにニキはそんなことを気にしてはいないのだ。だからこそ俺が部屋を移動したり家を出ようとすれば折角の両親との電話であっても急いで切ろうとしてしまうし、そうでなくても慌てて止めようとしてくる。それは俺にとっても本意ではない。であるから、ニキが両親との電話を始めた時、俺は俺の落ち著かない気持ちを自分の中に押し込めてじっとしているのが正解なのだった。

ニキの小さな聲が屆いたからだろう、電話口の男の聲が「自分で作ったらいい」と朗らかに笑った。その聲の更に向こうに、異國の言葉も漏れ聞こえてくる。ガヤガヤとした雑多な聲は、父親がひとの多い場所で電話をしていることを示していた。時折何かしらを買い付けるような會話を挾んでいるから、市場にでもいるのだろうと推測できた。電話口から少し遠ざかったところで誰かしらにトマト、と伝えているのが聞こえる。

『レシピは前に教えたし、この前スパイスも送ったと思うけど』

「なはは~! 美味しそうなのがいっぱい送られてきてた! お父さんから送られてきたレシピの通り、シナモンスティックでチャイを煮出したりもしたっすよ」

『美味いだろ』

「美味しかった~!」

その時の味を思い出したからか、とても楽しそうにニキが歓聲を上げる。

ニキの言うチャイという飲み物。それは先般俺も一緒に飲んだものだ。今と同じように座卓を囲んで橫に並びながら、ちびちびと喉を濕らした。刺激的なスパイスの香りとまろやかな牛乳に鮮やかな茶葉の味が混ざったそれを、ニキは送られてきたというレシピを睨みながら作り上げ、そして「美味しくできたっすよ!」と笑顔で俺に差し出してきたのである。ニキの言葉通り、チャイという飲み物はとても美味しかった。ニキの作る料理が美味しくなかったことなどないけれど。ニキは、年齢など考慮に値しないくらい既に料理が達者だ。それは、今電話で話している両親との関係で培われたものなのだろうことは想像に難くなかった。

ニキが會話にあげたから、俺もチャイの味を思い出してしまった。また飲みたいな、とぼんやり思う。ニキの電話が終わったら切り出してみよう、と思いながら、またニキが回すペン先を眺めていた。

「次はどこに行くの?」というニキの問いに、電話の向こうで父親が苦笑する。

『分からない。実はまだ決めていなくて。この後母さんと相談するよ』

「そうなんだ。美味しいお土産期待してるっすよ~」

ちょっとませた聲音でニキが父親に軽口を投げる。それに父親はまた朗らかな笑い聲をあげ、『わかった』と了承した。

居間に座っていても、スパイシーな香りが鼻に屆く。けして広いわけではないこの家全體に行き渡った匂いの元は、ニキが電話を終えてからすぐに取り掛かりだしたカレーのものだった。

電話をする前に取り組んでいた筈の宿題も畫面が暗くなった攜帯電話も放り出して、忙しなくも真剣な様子で臺所に立っている。

ほうれん草を茹でたり、玉ねぎを炒めたり、『ミキサー』というものにすべての材料を入れて攪拌したりという手順を踏んで、緑色のドロドロとしたカレーを作っていた。俺がこれまでニキに作らせたカレーとは全く違う色合いをしているが、カレーには様々な種類があるものらしい。

俺はこれまで臺所に立ったことがないから、ニキがしている作業(yè)の大半は見慣れないものばかりである。何をしているのかわからないことも多い。動作や順番にどんな意味があるのかを聞けば、ニキはまた隨分嬉しそうに俺にそれを教示するのが常だった。少し得意そうに頬を持ち上げる様は、なんだか年相応にいとけない。だが、今日はそういうわけにもいかなかった。ニキは普段よりも更に真剣に、額に汗を浮かべる程集中してカレー作りに取り組んでいたからだ。俺の「何をしているんだ」という問いも「後で教えてあげるっす!」と跳ねのけるくらい、普段よりも熱の入った調(diào)理だった。

「できたっすよ~」

臺所からそう言ったニキが、大量に焼いた『ナン』を両手に持って現(xiàn)れる。小麥粉とバターの焼けた、香ばしい甘い匂いが居間にふわりと香った。

「美味そうな匂いがするな……」

「美味しいっすからね! 焼きたてのパンは幸せの香りっすよ~」

得意げに鼻を鳴らしたかと思えば、俺を見ながらニキはへにゃりと目じりを下げた。

「燐音くん、前にチーズナン気に入ってましたよね? たくさん作ったんで、いっぱい食べてくださいね!」

言いながら、大量のナンを綺麗に片付けられた座卓に置く。

確かに、以前ニキが作ったナンの中にチーズが入っている『チーズナン』なるものはいたく美味しかった記憶がある。甘く味付けされたナンの中にとろけるチーズが入っていて、口から伸びていくチーズに目を丸くする俺をニキはひどく面白そうに笑っていた。その時に俺がチーズナンを気に入ったことを、ニキも覚えていたのだろう。ニキはそうやって、俺がどんな料理を好むかということを逐一記憶にとどめていた。俺好みの味付け、俺好みの料理。俺がまだ食べたことのないもの。そういうものを俺に與えることに、なにかしらの喜びを見出しているように見える。

本來であれば、俺が命の恩を返し、喜びを與えてやらねばならないのだけれど、ニキがその行為に喜びを感じている以上俺からあえて何か言うこともない。ただ、ニキがそうやって俺の好みを尊重する度、どこか面映ゆいような居た堪れないような気持ちに包まれるのが常だった。

「……おう」

だから、ニキへの返答もそんな聲一つになる。──いっぱい食べろと言われても、ニキの食べる量に比べれば俺の食べる量などたかが知れているのだけれど。

居間にナンを置いていったニキは、大皿によそった緑色のカレーを持ってまた居間に戻ってきた。ナンとカレーを合わせると俺一人では二日かけても到底食べきれないような量だが、ニキにかかれば一食分である。ひとの數(shù)倍食べなければいけない體質(zhì)の子供なのだ。

重そうな皿を座卓に置く前に受け取って、子供の代わりに機に置いた。故郷では宴でもなければ中々お目にかかれないような量だ。故郷とは違って毒見も必要ないここでは、料理も溫かいまま口にすることが出來る。溫かい料理はそれだけでどこかほっとするものなのだということを、俺は椎名ニキに教えられた。この子供に返すべき恩ばかりが、どんどん積もっていくようだ。それは俺の情けなさの証左でもある。けれど、ニキはそんなことを気にもせず、今日も料理を前にして俺に笑いかけた。

「じゃあ、いっただっきま~す!」

「いただく」

勢いの良い弾むような聲に促されてスプーンを手に取る。

俺が濃い緑の葉の色をそのまま映したようなルーをまじまじと眺めながら一口分をすくう頃には、ニキは大きく開けた口で一口目を味わっていた。小動物のように大きく膨らんだ頬が、歯を動かすごとに大きく動いている。はしたないと言えばはしたないが、ニキの小気味いい食べっぷりは、いつも見ていて気持ちいい。

けれど、常ならば瞳の中に満點の星の輝きを宿すようなニキの表情は、今日ばかりはそうはならなかった。

む、と曲げた眉。一瞬止まった顎の動き。納得がいかない、という気持ちを前面に出したような渋面だった。

料理に関して並々ならぬ執(zhí)著と拘りがあるニキだが、こうもあからさまに不満を表に出すのは珍しい。その様を真正面から見ていた俺の手も、思わず止まる。食べ始めることも忘れてまじまじと見つめていれば、ニキはまた顎を動かすことを再開して、飲み込んだ先から淀みなくスプーンに掬ったカレーを口に運んでいく。山と積まれたナンに手を伸ばして手元の皿に置くと、まだ一口も食べていない俺を認めてニキが首を傾げた。物を口に入れているから喋らないけれど、その目が「食べないのか」と聞いているのはわかった。首を振り、俺も同じようにルーを掬って口に含む。

「……!」

ぱ、と視界が広くなったような気がした。なんということはない、俺が常よりも目をよく開いただけだ。

緑色をした正體であるほうれん草と、牛の乳にスパイスが混ざり合った複雑な味だった。確かにスパイスが効いていて、その香味が鼻を抜けるのと同時にピリリと舌を刺激するのに、牛の乳とほうれん草がそれをまろやかに中和している。故郷ではあまり強い刺激物を口に含んだことがない身からすれば、こういったまろやかさは有難かった。素直に「美味しい」と思う。チーズナンも言わずもがなだ。

瞬きしつつ、緑色をしたカレーを矯めつ眇めつ眺めながら食べ進めた。美味しい。いつぞやにニキが作ってくれたバターチキンカレーとかいう奴も美味しかったけれど、好みで言えばこっちの方が好きだった。

だから、その美味しさに感動したまままた顔を上げてニキを見やる。美味しい、と伝えようとして──しかし、やはりどこか渋い表情を作ったままのニキを見ると、どう伝えたものかたじろいだ。

「……う~~ん、なんか違うんすよねえ」

もごもごと頬を動かしながらそう言ったニキが腕を組む。何が、とこちらが聞く前に、その答えはニキの方から提示された。

「お父さんのレシピそのままで作ってる筈なんだけど……お父さんの味にならないんすよね」

火加減か、スパイスや材料の分量が違うのか。小さな聲でそう呟きながらニキは苦笑する。

ニキの言う父親の味、というものを俺は知りえない。だからニキの言う正解はどんな味なのか、俺には到底理解できなかった。

もう一度、ニキの作ったカレーを口に運ぶ。

口の中に広がる、野菜の甘さと牛の乳のまろやかさ。そしてそれを引き立てるような、ピリリとしたスパイス。俺にはニキほどの料理の知識はない。今まで出されたものをただ食べるばかりで、こうしてニキのそれを見るようにまでは作る過程など見たこともなかった。だから、これは恐らく椎名ニキにとっての『正解』ではないのだろう。しかし、俺は思った通りのままそれを口にした。

「ニキ、──これ、凄く美味い」

自然に頬が持ち上がって、口角が笑みを形作った。美味しいものを食べる時、ひとは自然と笑ってしまうものらしい。これも、ニキと一緒に改めて実感した。美味しい料理というのは、ひとを幸せにする力がある。

真正面、大量によそわれた大皿から立ち上る湯気の向こう、ニキが目を開く。ぱち、ぱち、と大きく開いた目を瞬かせる頃には、眉間に寄っていた皺は消え失せていた。

「ニキの言う『父親の味』というのはわからないが……俺は、これが気に入った。また食べたい味だ」

そう言い加えながら、また一口を口に入れる。スプーンを皿に置いてチーズナンを手でちぎると、チーズが伸びて皿の上に落ちて行った。口の中のものを飲み下してから、チーズがちぎれたナンもまた同様に口に含む。

甘い生地と塩っけのあるチーズ。それと、まろやかなカレーの味。それが口の中で混ざって、當(dāng)然のように美味しかった。

もう一口、また一口、と口に運んでいれば、対面に座るニキが笑みの形に呼気を落とす。

その音の方を見やれば、目尻を赤く染めた子供が俺を正面から見つめていた。

「……じゃあ、また作るっすね!」

そう言って、ニキもまたカレーを口に入れる。先ほどよりはどこか満足げに見える表情だった。

見る見るうちに、大皿に入れられていたカレーが少なくなっていく。ニキがどんどんさらって行くというのもあるが、普段より俺の食が進んだというのもあるかもしれない。どこか競爭のような様相を呈しながらも、空になった皿を前に二人で手を合わせた。「ご馳走様」と告げた俺に、ニキはどこか嬉しそうに「お粗末様でした」と返す。

そのまま皿を持って流し臺に消えようとする子供の背中に「チャイが飲みたい」と言うと、振り返ったニキが「じゃあお皿洗うの手伝ってください」と俺に要求した。

その日、俺は二人で皿を洗うことが実は楽しいものだということを知った。

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