亮の追憶
寺田寅彥
亮(りょう)の一周忌が近くなった。かねてから思い立っていた追憶の記を、このしおに書いておきたいと思う。
亮は私の長姉の四人の男の子の第二番目である。長男は九年前に病死し、四男はそれよりずっと前、まだ中學(xué)生の時代に夭死(ようし)した。昨年また亮が死んだので、殘るはただ三男の順(じゅん)だけである。順はとくにいでて他家を継いでいる。それで家に殘るは六十を越えた彼らの母と、長男の殘した四人の子供と、そして亮の寡婦とである。さびしい人ばかりである。
亮の家の祖先は徳川(とくがわ)以前に長曾我部(ちょうそかべ)氏の臣であって、のち山內(nèi)(やまのうち)氏に仕えた、いわゆる郷士であった。曾祖父(そうそふ)は剣道の師範(fàn)のような事をやっていて、そのころはかなり家運が隆盛であったらしい。竹刀(しない)が長持ちに幾杯とかあったというような事を亮(りょう)の祖母から聞いた事がある。
亮の父すなわち私の姉の夫は、同時にまた私や姉の従兄(いとこ)に當(dāng)たっている。少年時代には藩兵として東京に出ていたが、後に南畫を川村雨谷(かわむらうこく)に學(xué)んで春田(しゅんでん)と號した。私が物心ついてからの春田は、ほとんどいつ行っても絵をかいているか書を習(xí)っていた。かきながら楊枝(ようじ)を縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。當(dāng)時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に會しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた當(dāng)時の自由黨員として地方政客の間にも往來し、後には県農(nóng)會の會頭とか、副會頭とか、そういう公務(wù)にもたずさわっていたようであるが、そういう方面の春田居士(しゅんでんこじ)は私の頭にほとんど殘っていない。
わくに張った絵絹の上に山水や花鳥を描いているのを、子供の私はよくそばで見ていた。長い間見ていても、ほとんど口をきくという事はなかった。しかし、さも楽しそうに筆を動かしては楊枝(ようじ)をかんでながめているのを、そばで黙って見ているのがなんとなく気持ちがよかった。そこにはいつものどかな春永(はるなが)の空気があった。
私のみならず、家內(nèi)じゅうのだれともめったに口をきいている事はまれなようであったが、ただ夕飯の膳(ぜん)にきまって添えられた數(shù)合の酒に酔って來ると、まるで別人のように気軽く物を言った。四人の子供や私などを相手にしていろいろの昔話をした。若い時分に東京で習(xí)ったとかいう講釈師の口まねをしたりして皆を笑わせた。藩兵になって日比谷(ひびや)の藩公邸の長屋にいた時分の話なども、なんべん同じ事を聞かされても、そのたびに新しいおもしろみとおかしみを感じさせた。それで子供らは、そういういくつかの取っておきの話の中から、あれをこれをと注文して話させては笑いこけるのであった。夏になると裏の畑に縁臺を持ち出して、そこで夜ふけるまで子供を肴(さかな)にして酒をのんでいた。どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寢間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。
春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌(こうとうがん)のためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態(tài)人情の奧の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸(ひょういつ)なふうがあった。
郷里の親戚(しんせき)や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖(ふすま)や屏風(fēng)(びょうぶ)が見られる。私はそれを見るたびに、楊枝(ようじ)をかみながら絵絹に対している春田居士(しゅんでんこじ)を思い浮かべる。その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。
亮(りょう)の生まれた時の事を私は夢のように覚えている。當(dāng)時亮の家には腸チブスがはいって來て彼の兄や祖母や叔父(おじ)が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に來て産褥(さんじょく)についた。姉の寢ていた枕(まくら)もとのすすけた襖(ふすま)に、巌(いわお)と竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に殘っている。
少年時代の亮について覚えている事はきわめてわずかである。舌のさきを奧歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜(ぼけ)の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨(せんこつ)を帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを退治するのだと言って、槍(やり)かあるいは槍といっしょに長押(なげし)にかかっていた袖(そで)がらみのようなものかを持ち出して意気込んでいたが、ねこの鳴き聲を聞くと同時にそれを投げ出して座敷にかけ上がったというような逸話もあった。
三人の兄弟のだれと思い比べてみても、どこか世間をはなれたような飄逸(ひょういつ)なところのある點でいちばん父の春田居士(しゅんでんこじ)の風(fēng)貌(ふうぼう)を伝えていたのではないかと私には思われる。
幻燈というものがまだ珍しいものであったころ、亮がガラス板にかいた絵を、そのまま紙の小さなスクリーンに映寫し、友だちを集めて幻燈會をやった事もあった。つまらないような事ではあるが、そういうふうの一種のオリジナリティもない事はなかった。
たしか右の眉尻(まゆじり)の上に真紅(まっか)な血ぼくろのようなものがあって、それを傷つけると血が止めどもなく流れ出た。そんな思い出が、どういうものか、私にはまたなくなつかしいものである。
亮(りょう)の存在が、私の頭の中で著しく鮮明になって來たのは、私が國の中學(xué)校を出て高等學(xué)校に入學(xué)し、年々の暑中休暇に帰省した時分からである。
片田舎(かたいなか)の中學(xué)生で、さきざき高等學(xué)校から大學(xué)に進(jìn)もうという志望をいだいているものにとっては、暑中休暇に帰省している先輩の言動はかなり影響のあるものである。そういうような影響もあるいはあったろうが、暑中休暇の間はほとんど毎日のように私のうちに往來した。當(dāng)時どんな事が二人の話題に上ったかは思い出せないが、いずれ人生とか、運命とか、あるいは文學(xué)とか、蕓術(shù)とか、そういう種類の事がおもなものであったらしい。當(dāng)時若々しい希望に満ちて理想のほか何物も眼中になかった叔父(おじ)と、そろそろ家庭以外の世界に目をあけかかった感受性に富んだ甥(おい)との間には、夢のような美しい空想の國が広がっていた事であろう。
つまりどこか気が合っていたものと見える。南國の炎天に寫生帳をさげて、よくいっしょに水彩畫をかきに出かけたりした。自転車の稽古(けいこ)をして、少し乗れるようになってからいっしょに市外へ遠(yuǎn)乗りに行って、帰りに亮(りょう)が落ちて前歯を一本折った事もあった。
そのころの亮の寫生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七字集と題して、幼稚な、しかし美しい夢に満ちた俳句が、紫鉛筆や普通の鉛筆でかき並べてあって、その終わりの余白には當(dāng)時はやった不折流(ふせつりゅう)のカットがかいてある。また自刻の印章――ボート形の內(nèi)に竪琴(たてごと)と星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉(ばしょう)などの精密な寫生があるかと思うと、裏田んぼの印象風(fēng)景などもある?!袱い罚ㄉ矫─匦肖摔悉嗓盲沥扦工埂干裆纭埂弗ⅴ磨蕙畅`ト」「小女山道」「晝飯」「牛を追う翁(おきな)」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠(yuǎn)足の途中のいたずら書きらしいものもある。
亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のようなものをかいたりしたのもある。私はそのころ熊本(くまもと)で夏目先生に句を見てもらっていた。そして帰省すると甥(おい)に句を作らせて自分が先生のつもりでいたものらしい。とにかくそのころの亮と私の生活はない交ぜたもののようになっていた事がこの帳面を見てもよくわかる。
裏坪や臺所などのスケッチを見ると、當(dāng)時のB家のさまがいろいろ思い出されて、そのころからわずかに二十年の間に相次いでなくなった五人の親しい人々の面影を、ついそこらに見るような気がする。
私が大學(xué)へ移ったのと入り代わりぐらいに、亮(りょう)は熊本(くまもと)の高等學(xué)校へはいった。同じ寫生帳の後半にはそこの寄宿舎や、日奈久溫泉(ひなぐおんせん)、三角港(みすみこう)、小天(おあま)の湯(ゆ)などの小景がある。日奈久の溫泉宿で川上眉山(かわかみびざん)著「鳰(にお)の浮巣(うきす)」というのを読んだ事などがスケッチの絵からわかる。浴場の絵には女の裸體がある。また紋付きの羽織(はおり)で、書機(jī)に向かって鉢巻(はちま)きをしている絵の上に「アーウルサイ、モー落第してもかまん、遊ぶ遊ぶ」とかいたものもある。
亮が後年までほとんど唯一の親友として許し合っていたM氏との交遊の跡も同じ帳面の絵からわかる。
中學(xué)時代からいっしょであったのが、高校の入學(xué)試験でM氏は通過し、亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。
高等學(xué)校では私もよく食った凱旋饅頭(がいせんまんじゅう)を五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。
大學(xué)は農(nóng)科へ入學(xué)して、農(nóng)蕓化學(xué)を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって學(xué)校を休學(xué)した。それきりどうしても再び出ようとは言わなかったのを、私が留學(xué)から帰った時に無理にすすめて出る事にはなったが、それでもやはり學(xué)校は欠席がちであった。
そのころは私はもう青年ではなかった??障毪楝F(xiàn)実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうして亮(りょう)の學(xué)校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側(cè)へ向け直してやる事が自分の務(wù)めのように思っていたので、機(jī)會あるごとに口をすくして説法のような事を聞かせた。
その當(dāng)時の亮(りょう)の日記のようなものを見ていると、こんな一節(jié)がある。
「明治四十四年十一月二十八日――昨日青山(あおやま)の宿から本郷(ほんごう)の下宿へ移った。朝押し入れから蒲団(ふとん)や行李(こうり)を引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父(おじ)さんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら學(xué)校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は學(xué)校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだいやだと思う。室(へや)いっぱいに取り散らした荷物を見るとやはり國へ帰りたい念が強(qiáng)く起こる。今宿へ払う金が十円ばかりある。これで、きょう思い切って帰ろうとしきりに思う。しかし國へ帰っても自分のうちへ帰るのではない――兄と嫂(あによめ)の家――苦しい事は同じだ。私は自分をどうする事もできない。しかし私はこうしていても、ついには田舎(いなか)で貧しくとも靜かに生活するという、私が自分を省みてのただ一つの望みが満たさるる時が來る事はないように思われる。この望みが、もう全く活力のない私を自分に捨てかねる原因になっている。こんな望みもなくなってほしい。前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が來てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった?!?/p>
「夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思いながら、そのものに対する責(zé)任は盡くして行くといったような態(tài)度や弱き者に対する軽侮の笑いに対しては、生きている私は屈辱を感ぜずにはいられなかった?!?/p>
私はここまで読んだ時に、當(dāng)時の自分のどこかに知らぬ間に潛んでいた弱點を見抜かれたような気がして冷や汗が流れた。
その次にまたこんな事がかいてある。
「自分を発展しなくてはやまない活力、これが人生を楽しむ要素である?!?/p>
亮(りょう)がどうしてこうはげしい神経衰弱にかかったかは私にはよくわからない。一つはそのころひどく胃が悪くて絶えず痛んでいたという事が日記の中にも至るところに見いだされ、またいつであったか一度は潰瘍(かいよう)の出血らしいものがあったという話を聞いているから、この病気のためもあったに相違ない。実際その前から胃弱のためにやせこけて、人からは肺病と思われていた。
この記事より二年前明治四十二年十一月を起點とした「どうなりゆくか」と題した彼の日記の最初のページからもうこの胃痛の記事が出て來る。そして學(xué)校の不愉快、人に対する不平、自己に対する不満、そういう感情の敘述と胃の痛みの記事とが交錯して出てくる。
しかしこの消化器病のほかに亮を悩ましていた原因もいろいろないではなかった。それは、第一には父の春田が當(dāng)時不治の病気にかかっていた事である。私は海外へ出ていてほとんど何事も知らずにいたが、日記を見るとそれに関する亮(りょう)の煩悶(はんもん)のようなものがいくらかうかがわれる。四十二年十一月七日のには、
「……近ごろ身內(nèi)のものから手紙が來ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい?!袱尾荬藢潳筏啤⑺饯涡某证沥?、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていられる。見舞いの手紙も一度も出した事はない。不孝の子だ?!?/p>
「弟と通りを散歩しながら、いつになく、自分の感情の美しからざる事などを投げ出すように話した。おれは自分をあわれむというほかに何も考えない。こんな事を言った。そして弟の前に自分を踏みつけた時に少し心の安まるような心持ちがした。しかしこの絶望の聲に対して少しの同情を期待したというような弱い心持ちもあったようだ?!苑证献苑证紊蜃笥窑工毪瑜Δ蚀笫陇?、恐れて忘れよう忘れようとつとめる。そして日々 trifles によって苦しめられている?!?/p>
「高等學(xué)校の校醫(yī)の○○も、○○という體操教師も『君のにいさんはとても高等學(xué)校もよう卒業(yè)しまいと思っていたが、大學(xué)へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責(zé)任が多少軽くなったような安心を覚えた。」
第二第三の原因らしいものも考えられない事はないが、それらはここには書かない。
亮的回憶
寺田寅彥
亮的一周年忌日快到了。我想把早就想起來的追憶之記寫在這鹽里。
亮是我大姐四個兒子中的老二。長子九年前病死,四子早在更早之前,還是中學(xué)生的時候就夭折了。去年亮又死了,只剩下三兒子順。順特別出外繼承家業(yè)。家中只剩下他們年過六十的母親、長子留下的四個孩子和亮的寡婦。都是些寂寞的人。
亮家的祖先在德川以前是長曾我部氏的臣子,后來仕于山內(nèi)氏,也就是所謂的鄉(xiāng)士。曾祖父是劍道老師,當(dāng)時家道興隆。從亮的祖母那里聽說過竹刀可以長持好幾杯。
亮的父親,即我姐姐的丈夫,同時又是我和姐姐的堂兄。少年時代作為藩兵去了東京,后來向川村雨谷學(xué)習(xí)南畫,號春田。自從我懂事以來,春田幾乎什么時候去都在畫畫或?qū)W習(xí)書法。他有一邊畫一邊把牙簽豎著插在嘴里咀嚼的習(xí)慣。當(dāng)時所謂的文人墨客經(jīng)常聚在一起喝酒、寫信。另一方面,他作為當(dāng)時的自由黨員,往來于地方政客之間,后來還擔(dān)任縣農(nóng)會會長、副會長等職務(wù),在這方面的春田居士幾乎給我留下了深刻印象。沒有。
小時候的我經(jīng)常在旁邊看他在貼著畫框的彩絹上畫山水花鳥。看了很長時間,幾乎沒有開口說話。但是,看著他津津有味地?fù)]動著筆,咬著牙簽看,在旁邊默默看著,總覺得心情很好。那里總是洋溢著春永的和煦氣息。
不僅是我,他似乎很少和家里的任何人說話,只是晚飯桌上固定的幾杯酒喝得醉醺醺的時候,他就像換了一個人似的輕松地說著話。以四個孩子和我為對象講了很多往事。模仿年輕時在東京學(xué)過的說書人的口吻逗得大家哄堂大笑。當(dāng)藩兵住在日比谷藩公邸的長屋時的事也是,同樣的事不管聽多少遍,每次都會讓人產(chǎn)生新的趣味和滑稽感。于是,孩子們就從這幾件珍藏的故事中挑出一件說一件,笑得前仰后合。一到夏天,就把長凳搬到后面的田地里,在那里把孩子當(dāng)菜喝酒喝到深夜。不知怎么的,在那里醉倒了,大家一起抬到臥室。有時心情不好,這種時候孩子們是不能靠近的。
十二三年前,五十多歲的春田因喉癌病倒。在我看來,姐夫是個少有的透明、聰明的人,似乎看透了世態(tài)人情的深處。盡管如此,他卻有一種幾乎對俗世一無所知的灑脫氣質(zhì)。
到故鄉(xiāng)的親戚或朋友家去,至今還能看到春田畫的畫有四君子和山水畫的隔扇和屏風(fēng)。每當(dāng)我看到它的時候,腦海里就會浮現(xiàn)出咬著牙簽對著繪絹的春田居士。那幻象的周圍總是和煦的春光。
亮出生時的事,我記得像夢一樣。當(dāng)時亮的家里得了腸炎,他的哥哥、祖母和叔叔都相繼臥床不起,所以他的母親就到他的老家,也就是我家來產(chǎn)褥子。只有姐姐睡覺的枕頭旁邊那扇發(fā)灰的拉門上,貼著一幅畫著巖石和竹子的水墨畫,至今還清晰地留在我的腦海里。
關(guān)于少年時代的亮所記得的事情極少。我想起自己習(xí)慣用舌尖抵著槽牙,一邊咬一邊發(fā)出某種聲音。不知道這和父親咬牙簽的習(xí)慣有沒有關(guān)系。還有,不知什么時候,他一邊用竹片胡亂拍打木瓜樹,一邊重復(fù)著同樣的話。當(dāng)時那張帶著仙骨的臉仿佛歷歷在目,這也許是我的錯覺。還有一次,他說要消滅野貓,拿出長矛或者和長矛一起掛在長木棍上的類似袖子的東西,興致勃勃地說著,聽到貓叫聲的同時就把它扔了出去。也有跑到客廳去的逸聞。
與三個兄弟中的任何一個相比,我認(rèn)為他的父親春田居士的風(fēng)姿最能體現(xiàn)在他那遠(yuǎn)離塵世的灑脫氣質(zhì)上。
幻燈還是稀有的東西的時候,亮在玻璃板上畫的畫,就那樣放映在紙制的小屏幕上,召集朋友進(jìn)行幻燈會。雖然是無聊的事,但也不無這種獨創(chuàng)性。
他的右眉上好像有個鮮紅的血疙瘩,一弄傷它,血就止不住地流出來。那樣的回憶,是怎樣的呢,對我來說是無比懷念的。
亮的存在在我的腦海中變得鮮明起來,是從我從國內(nèi)的初中畢業(yè)進(jìn)入高中,每年暑假回家的時候開始的。
對于那些偏僻鄉(xiāng)下的初中生,希望將來從高中升入大學(xué)的人來說,暑假回家的前輩的言行有著相當(dāng)大的影響。大概也有這樣的影響吧,暑假期間幾乎每天都來我家。我想不起來當(dāng)時兩人談?wù)摰脑掝}都是些什么,總之都是人生、命運,或者文學(xué)、藝術(shù)之類的話題。當(dāng)時年輕充滿希望、眼里除了理想什么都沒有的叔叔,和即將把目光投向家庭以外的世界、富有感受性的外甥之間,想必正沉浸在夢幻般的幻想世界中吧。
也就是說,兩人似乎有些意氣相投。經(jīng)常在南國的炎熱天氣里提著寫生本,一起去畫水彩畫。學(xué)自行車,稍微會騎了一點之后,一起去市外騎遠(yuǎn)車,回來的時候,小亮摔了一顆門牙。
現(xiàn)在把保存著的亮當(dāng)時的寫生簿拿過來一看,沒有一件不是回憶的種子。第一頁以十七字集為題,用紫色鉛筆或普通鉛筆羅列著幼稚卻充滿美好夢想的俳句,末尾的空白處還畫著當(dāng)時流行的不折流剪接。上面還蓋著自己刻的印章——小船形狀里刻著豎琴和星星。既有對自家大門、庭園芭蕉等精致的寫生,也有對鄉(xiāng)間田野的印象風(fēng)景等?!叭モA路(山名)的話在哪邊?”“神社”“熱街”“小女山道”“午飯”“趕牛翁”“橘子”“一邊休息一邊眺望水流,鹡鷺鳴叫,夕陽西下”等等。也有郊游途中的涂鴉。
我在亮畫的畫上題句,我在亮的俳句上寫些自以為是的評論。那時我在熊本請夏目老師給我看俳句。而且每次回家都讓外甥寫句子,好像自己把自己當(dāng)成老師了??傊?,從這本記事本就可以看出,當(dāng)時亮和我的生活是交織在一起的。
看到后坪和廚房的草圖,不禁想起當(dāng)時B家的各種情景,仿佛在那里看到了從那時起短短二十年間相繼去世的五位至親的身影。
就在我轉(zhuǎn)到大學(xué)的時候,亮去了熊本的高中。同一本寫生冊的后半部分有宿舍、日奈久溫泉、三角港、小天溫泉等小景。小鸊鷉在日奈久的溫泉旅館里閱讀了川上眉山所著《小鸊鷉的浮巢》等事,由素描的繪畫可知。浴場的畫里有女人的裸體。還有一件帶家徽的短褂,上面畫著一幅頭纏書桌的畫,上面寫著“啊,吵死了,不及格也沒關(guān)系,玩玩玩”。
從同一本筆記本上的畫中也可以看出亮與多年前幾乎作為唯一好友而互相原諒的M氏的交往痕跡。
從初中開始就在一起,高中入學(xué)考試M通過了,亮晚了一年。當(dāng)時贈送給M先生的俳句中有“升起的露散落的露秋離別”。
我在高中時經(jīng)常吃的凱旋饅頭,吃了五十個,后來好像還吃了啤酒散。
大學(xué)進(jìn)入農(nóng)科學(xué)習(xí)農(nóng)藝化學(xué),不久患上嚴(yán)重的神經(jīng)衰弱而休學(xué)。從那以后,他無論如何也不肯再去,我留學(xué)回來時,他硬勸我去,但我還是經(jīng)常缺席學(xué)校。
那時我已經(jīng)不是青年了。從空想踏入現(xiàn)實世界,為功名心所驅(qū)使,拼命努力,忙忙碌碌。于是對亮逃避上學(xué)的心情產(chǎn)生了共鳴。在我看來,亮總是縮進(jìn)自己的內(nèi)心,無論如何都要把他拉出來,讓他向外看,這是我的職責(zé)所在,所以一有機(jī)會,我就閉嘴給他說教。
翻閱當(dāng)時亮的日記,有這樣一段。
“明治四十四年十一月二十八日——昨天從青山的旅館搬到本鄉(xiāng)的寄宿處。早上從壁櫥里拿出被子和行李收拾行李的時候,我也在想,即使搬了旅店,我又會怎樣呢?叔叔和弟弟說,換個地方換個心情就能去上學(xué)了。我已經(jīng)沒有勇氣往學(xué)校的方向走一步了,真討厭??吹絹G得滿地都是的行李,還是強(qiáng)烈地產(chǎn)生了想回國的念頭?,F(xiàn)在給旅館的錢有十來日元,就拿這筆錢,今天下決心回去吧。但是回鄉(xiāng)并不是回自己家——兄嫂家——所受的苦是一樣的,我對自己無能為力。然而,即使我這樣做,我反省自己的唯一愿望——在鄉(xiāng)下貧窮而安靜地生活——似乎終究不會到來。這種希望是我無法拋棄已經(jīng)毫無活力的我的原因,我不希望這樣的希望也沒有了,前途一片黑暗,我正想著這樣的事情發(fā)呆的時候,弟弟來了。而且不知不覺就搬走了?!?/p>
“晚上去找弟弟和叔叔。雖然知道這家伙已經(jīng)不行了,但那種對他盡一切責(zé)任的態(tài)度和對弱者的輕蔑嘲笑,讓活著的我感到無比屈辱?!?/p>
我讀到這里的時候,覺得自己當(dāng)時不知不覺中潛藏的弱點被人看穿了,冷汗直冒。
然后又發(fā)生了這樣的事。
亮(りょう)は自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科學(xué)上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出來事でも、その事がらの表面に現(xiàn)われている現(xiàn)象よりも、その現(xiàn)象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奧底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶(はんもん)はおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、亮(りょう)はどんなに気らくであったろう。
こういう不安と煩悶(はんもん)をいだきつつ、學(xué)校へ出ては発酵化學(xué)の実験をやり、バクテリヤの培養(yǎng)などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席(よせ)や芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麥(そば)や汁粉(しるこ)を食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。
「本日は弟と歌舞伎座(かぶきざ)に行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、學(xué)業(yè)に対する不忠実、このようなものが入り亂れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない。しかし芝居のようなざわざわしている所がいちばん『忘れる』に適している?!?/p>
その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。學(xué)校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭(すえひろてい)へ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ?!?/p>
心のさびしさが不養(yǎng)生をさせ、その結(jié)果がさびしさを増していたのである。
四十三年一月下旬に父の春田居士(しゅんでんこじ)が死んだ。その年の三月から亮(りょう)は學(xué)校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州(そうしゅう)へんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に國へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から學(xué)校へ通(かよ)っていたが、翌年にそれでもどうにか卒業(yè)した。
「……ことしで、はや、三度學(xué)校をしくじって、今度やっと末席で卒業(yè)する事ができた。しかし卒業(yè)したのはやはりうれしかった。そして神田(かんだ)の西洋料理でやった謝恩會へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた?!工长螭适陇袱嗓Δ胜辘妞工阮}した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業(yè)はともかくも亮(りょう)にとっても一つの一大転機(jī)であった。
この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認(rèn)めていたらしい。それで卒業(yè)席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農(nóng)學(xué)校の教諭として赴任することとなった。そして數(shù)年前に結(jié)婚して郷里に殘してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでの亮(りょう)はだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
交際という事には全く慣れず、あらゆる実務(wù)という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任當(dāng)座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違い多きを恐れて、ますます間違いを生ず」という文句が入學(xué)式のあった日の日記にあるのも、そのへんの消息を語っているように見える。しかし格別の大失態(tài)というほどの事もなくて、後には教頭や舎監(jiān)も勤めているのを見ると、そういう地位にでもどうにか適応するだけのものはやはり備えていたものと見える。亮の子供の時からの外見だけで彼を判斷していた老人などは、そういう役目の勤まるのをむしろ不思議に感じていたらしい。
いつだったか、かの地からよこした手紙に、次のような意味の事があった。
今までは、何物にもぶつかるという事なしに、遠(yuǎn)くからガラスの障子越しにながめるばかりで、それでいろんな事を空想しては恐ろしがってばかりいたが、今日ではもういやでも物にぶつからなければならない。そうなると空想をするだけの余裕はなくなる。そして存外勇気が出て來る。
またこんな事もあった。「うまく物事をやろうというような気の出るのがいちばん困る?!?/p>
卒業(yè)就職の後ともかくも神経衰弱は大部分癒(い)えたようであった。ただかの地の冬の冷濕の気候が弱いからだにこたえはしまいかと心配していたが、割合にしばらくは無事であった。
かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外國文學(xué)の輪講會をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版畫などの展覧會をやったり、とにかく相當(dāng)に自分の趣味を満足させるだけの環(huán)境はあったらしい。靜かな田舎(いなか)で地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン?ローランを読んだりセザンヌや親鸞(しんらん)の研究をしたり、生徒に化學(xué)などを授けると同時に図畫を教えたり、時には知人の肖像をかいてやったりするような生活は、おそらく亮(りょう)が昔から望んでいた理想によほど近いものではなかったかと思う。前に出した「どうなりゆくか」の中にも「単純な仕事に、他の事は考えるひまなく、忙しく働いた後、湯にでもはいってゆったりして、本でも読むか、紅茶でも飲みながら、好きな絵でも見るような生活がやってみたい」とあるが、この望みはいくらか遂げられたのではないかと思われる。
セザンヌの好きであった彼のそのころの日記にこんな事がある。「セザンヌの絵のような境地に至りたいと思いながら、今までその內(nèi)容すなわちそれまでに至る努力を考えなかった。神にすべてをまかせて、安心して、自己の真を打ち出して、運命を直視し、苦しみ悲しみながら進(jìn)もう。そしてシンプルな、落ち著いた、セザンヌの絵のような境地に達(dá)しよう?!工蓼郡长螭适陇猡ⅳ??!弗去毳攻去い先松螏⑷い驔Qめてしまおうとした。そこに不自然があり無理がある。そこに芝居気が生ずる。」
學(xué)校の職務(wù)について苦労のない事はなかった。學(xué)校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態(tài)度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の斷片のようなものなどから判斷してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛の足りない事を悔やんでいたようである。
生徒にはそれでも相當(dāng)に厳格であったらしい。舎監(jiān)としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまた亮(りょう)に「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきややせてひょろ長く、貓背(ねこぜ)を丸くしている格好などから名づけたものであろう。実際そういえばそうらしい様子もあった。しかし彼の風(fēng)貌(ふうぼう)にはどことなく心の奧底のやさしみと美しさが現(xiàn)われていたように思う。生徒のこのあだ名から私はどうしても単純な憎悪や嫌忌(けんき)を読み取る事ができない。
友だちといっしょに酒を飲んだりする時には、どうかすると元気がよくて、いつになく高談放語したり、郷里の昔の武士の歌った俗謡をどなったりする事もあったそうであるが、これはどうもやはり亮(りょう)のおもな本性ではなかったように私には思われる。ただもう少し健康で、もう少し體力が盛んであったら、こういう方面がもう少し平生にも現(xiàn)われたかもそれはわからない。
弱いからだにとうとう不治の肺患が食い込んでしまった。東京の醫(yī)師に診(み)てもらうために出て來て私のうちで數(shù)日滯在してから、任地近くの海岸へしばらく療養(yǎng)に行っていたが、どうもはかばかしくないので、學(xué)校を休職して郷里の浜べに二年余り暮らした。天気がいいと油絵のスケッチに出たりしていたようである。ほんとうに突っ込んでかきたいと思っても、ついめんどうでいいかげんにごまかしてしまうのが殘念だというような事を手紙の端に書いてあったりした。そのころのスケッチ帳に亮の妻が亮の寢顔を?qū)懮筏郡韦ⅳ毪?、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護(hù)の禮を言って暇(いとま)ごいをして、自分の死後妻には自由を與えてやってくれと遺言して、靜かに息を引きとったそうである。
急を聞いて國へ帰っていた亮(りょう)の弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような心持ちがした。ほとんど予期されていた亮の最後が、それほど安らかで靜かで美しいものであったと知った時には、思わず「それはよかった」といったような不倫な言葉が自然に口から出た。そうしてそのあとから水のにじみ出るようなさびしさが襲って來るのであった。
散るべくしてわずかに散らないでいた桐(きり)の一葉が、風(fēng)のない靜かな夕べにおのずから枝を離れて落ちたような心持ちがした。自分の魂の一部分がもろく欠け落ちて永久に見失われたというような心持ちもした。
亮(りょう)の死の報知が伝わった時に、F町の知友たちは並み並みならぬ好意を故人の記念の上に注いでくれた。生前から特別な恩典を與えて心安く療養(yǎng)をさせてくれた學(xué)校當(dāng)局は、さらに最後の光栄を盡くさしてくれた。親しかった人々は追悼會や遺作展覧會を開いてくれ、またいろいろの余儀ない故障のために親戚(しんせき)のものだれ一人片付けに行く事のできなかった遺物の処理までも遺憾なく果たしてくれた。そしてこの処理の中に一通りならぬ濃まやかな心づかいのこもっているのを感じないわけには行かなかった。
そのほかの知友の中でも、中學(xué)時代からの交遊の跡を追懐した熱情のこもった弔詞を寄せられた人や、また亮が読むべくしてついに読む事のできなかった倉田(くらた)氏の著書の巻頭に懇篤な追悼文を題して遺族に贈られた人もあった。
私はここでそういう人々の名前をあげて感謝の意を述べたいような気がする。しかし私の頭にある故人のある資質(zhì)を考えると、かえってそうしないほうがよいようにも思う。
ただそれらの人たちに対する遺族や一門の厚い感謝の念は、故人の記憶の消えない限り消える事はあるまい。
年取って薄倖(はっこう)な亮(りょう)の母すらも「亮は夭死(ようし)はしたが、これほどまでに皆様から思っていただけば、決してふしあわせとは思われない」とそう言っている。私もほんとうにそう思う。
これだけの好意を人から寄せられるには、やはりよせられるだけのある物があったに相違ない。そのある物がこの世に殘っている限り、死ぬという事はそんなにさびしい事ではあるまい。
亮には一人の子供もなかった。そして子供をほしがっていた時代もあった。死の迫るを知った時になってどう思ったかわからないが、ただなんとなくそれがさびしくはなかったかと思う。
亮(りょう)はたしかに弱い男には相違なかった。しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平靜な水面のような外見の底に不斷に起こっていた渦巻(うずまき)がいかに強(qiáng)烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強(qiáng)い人々よりも幾倍も強(qiáng)い男であったかもしれない。
亮のような柔らかい心臓と彼のような透明な脳とを同時にもって生まれるという事は、現(xiàn)世にあっては不幸な事かもしれない。防御のない急所を矢弾(やだま)の雨にさらすようなものかもしれない。その上にまた亮は弱い健康には背負(fù)いきれない「生」の望みを背負(fù)っていた。そういう不調(diào)和の結(jié)合から來るいろいろの苦悩は早くから亮の心を宗教に向かわせた。始めはキリストの教えを通ってついには親鸞(しんらん)の門にはいった。最後にどこまで進(jìn)んでいたかはわからないが、ただ彼の短い生涯(しょうがい)が決してそれほど短いものでなかったという事だけは言えるように思う。
(大正十一年五月、明星)
亮說自己腦子不好使。但在我看來,他反而擁有難得的聰明透徹的頭腦。即使是相當(dāng)復(fù)雜的科學(xué)事實和理論,也能輕松地抓住其要害。即使是世間發(fā)生的各種事情,比起那些事情表面所呈現(xiàn)的現(xiàn)象,他更關(guān)注那些現(xiàn)象背后的原動力。別人的言行也能直接看透內(nèi)心。這種敏感從孩提時代就有了,但因為生病,變得更加病態(tài)敏感。所以,別人就不用說了,連親人和自己內(nèi)心深處的一點黑影也不能放過。而這種對不美事物的極端潔癖,阻礙了對人對己無心的純感情流露。而且,這種感情束縛的自覺最嚴(yán)重地折磨著他。但是,如果沒有比別人更美好的溫柔感情,恐怕就不會有這樣的煩悶了吧。罪在于聰明。如果頭腦再笨一點的話,亮該有多輕松啊。
帶著這種不安和苦悶,我去學(xué)校做發(fā)酵化學(xué)實驗,培養(yǎng)細(xì)菌。晚上,她經(jīng)常和弟弟一起去看曲藝場、戲劇和活動,以此來排遣心中的寂寞。胃疼的時候還經(jīng)常吃蕎麥面和紅豆湯,對自己的不滿似乎在增加。
“今天和弟弟要去歌舞伎座?!獙Ω赣H疾病的“無愛的恐懼”、對金錢的不安、母親的辛勞、因不孝而失去的親子之愛、對學(xué)業(yè)的不忠實,在這些雜亂無章的頭腦里,這出大戲的忠臣藏也不可能有趣。但像戲劇一樣嘈雜的地方最適合‘忘記’?!?/p>
第二天的文章中,
“昨天看完戲回家的路上,因為吃了太多蕎麥面和小豆湯,胃不舒服。決定不上學(xué)了。弟弟也請假了??慨嫯嬤^活。晚上去末廣亭下大雨。相當(dāng)大的昏暗小屋里只有兩三個客人,說話的人和聽的人都很寂寞,回去的時候又去蕎麥面店喝酒了?!?/p>
內(nèi)心的寂寞使他不養(yǎng)生,結(jié)果又增加了寂寞。
四十三年一月下旬,父親春田居士去世。從那年三月開始,亮就完全不去上學(xué)了,漫無目的地在總州一帶旅行,神經(jīng)衰弱越來越嚴(yán)重,終于在四月回到了家鄉(xiāng)。如前所述,四十四年再次被拖到東京,從我附近的寄宿處上學(xué),第二年總算畢業(yè)了。
“……今年,已經(jīng)三次在學(xué)校失敗了,這次終于在末席畢業(yè)了。不過畢業(yè)還是很高興的,而且還參加了神田的西洋料理謝恩會。但默默地縮到角落去了。”這件事寫在題為《何去何從》的日記筆記的最后一頁。這樣這本賬就寫完了。畢業(yè)對亮來說也是一大轉(zhuǎn)機(jī)。
覺得自己是這個世界上最劣等的人的亮,在教他的教授們眼中絕對不是那樣的。某位老師似乎特別認(rèn)可他的聰明。因此,盡管畢業(yè)名次排在最后,但由于老師的推薦,我被派到T縣F鎮(zhèn)農(nóng)學(xué)校擔(dān)任教師。然后和幾年前結(jié)婚后留在家鄉(xiāng)的妻子,在那里才有了自己的家庭。
去了那個地方以后的生活我不太了解。但是在我看來,亮在那里似乎是幸福的。
對交際完全不習(xí)慣,對所有實務(wù)沒有經(jīng)驗也沒有興趣的亮剛赴任的時候,不難想象會有很多困擾的事情吧??梢韵胂螅欢ń?jīng)歷過各種失敗,也嘗過各種痛苦。開學(xué)典禮那天的日記里有這樣一句話:“害怕自己腦子里的錯誤太多,所以錯誤越來越多?!彼坪跻舱f明了這方面的情況。但也沒有什么特別失態(tài)的事,后來還當(dāng)過教頭和舍監(jiān),可見他還是具備了適應(yīng)這種地位的能力的。那些從小就只憑亮的外表來判斷他的老人,對他能勝任這樣的工作反而感到不可思議。
不知什么時候,有一封從某地寄來的信,內(nèi)容如下。
以前什么也不碰,只是隔著玻璃拉門遠(yuǎn)遠(yuǎn)地眺望,因此幻想各種事情,只覺得害怕,但現(xiàn)在即使不愿意也得去碰東西。那樣的話就沒有空想的閑情逸致了。而且意外地鼓起勇氣。
還有這樣的事?!跋氚咽虑樽龊玫南敕ㄊ亲盥闊┑?。”
畢業(yè)工作后,神經(jīng)衰弱似乎大部分都痊愈了。只是擔(dān)心當(dāng)?shù)囟斓睦錆駳夂驎ι眢w造成影響,沒想到暫時平安無事。
在那里漸漸結(jié)交了興趣相投的朋友,他們聚在一起舉辦外國文學(xué)的輪講會。好像也畫了很多畫。有時還會舉辦精心收集的剪貼版畫展覽會,總之有相當(dāng)滿足自己興趣的環(huán)境。在寧靜的鄉(xiāng)村做著平凡的教師,閱讀托爾斯泰、陀思妥耶夫斯基和羅曼羅蘭,研究塞尚和親鸞,在教授學(xué)生化學(xué)等知識的同時也教授圖畫,有時還為熟人畫肖像。寫東西什么的生活,恐怕與亮從以前就期望的理想相當(dāng)接近吧。之前發(fā)表的《將會怎樣》中也提到“單純的工作,無暇考慮其他事情,忙碌工作之后,泡個澡放松一下,讀讀書,喝杯紅茶,看看喜歡的畫,過著這樣的生活”。有,但我認(rèn)為這個愿望多少已經(jīng)實現(xiàn)了。
喜歡塞尚的他在當(dāng)時的日記里有這樣一段話?!拔蚁脒_(dá)到塞尚畫中的境界,卻從來沒有想過它的內(nèi)容,也就是達(dá)到它的努力。把一切都交給神,安心地拿出自己的本真,正視命運,在痛苦和悲傷中前行。讓我們達(dá)到簡單的、平靜的、像塞尚畫一樣的境界。”還有這樣的事?!巴袪査固┫霙Q定人生的歸趣。那里有不自然的地方,有勉強(qiáng)的地方,那里就產(chǎn)生了裝模作樣的感覺?!?/p>
對于學(xué)校的職務(wù)沒有不辛苦的事。學(xué)校里常有的大大小小的事件,對他的健康造成了很大的負(fù)擔(dān)。我完全不知道他在這種時候采取了什么樣的態(tài)度和措施,但從日記的片斷來判斷,他似乎總是在為自己的誠意、熱心和愛的不足而懊悔。
盡管如此,對學(xué)生似乎還是相當(dāng)嚴(yán)格的。作為舍監(jiān)似乎也相當(dāng)嚴(yán)厲。他穿著拖鞋到處巡視,學(xué)生們很喜歡他的腳步聲,所以給他取了個綽號叫拖鞋。學(xué)生們還說自己給亮取了個綽號叫“龍年子”。這大概是從他的長相、瘦長、駝著背的樣子來命名的吧。實際上也確實如此。但我覺得他的風(fēng)貌中似乎流露出他內(nèi)心深處的溫柔與美麗。從學(xué)生的這個綽號我怎么也讀不出單純的憎惡和厭惡。
據(jù)說他和朋友一起喝酒的時候,精神特別好,一反常態(tài)地高談闊論,有時還會唱家鄉(xiāng)古代武士唱的民謠,但這果然是亮的主要著作。我覺得不是性。只是如果身體再健康一點,體力再旺盛一點的話,這方面平時可能也會出現(xiàn)。
虛弱的身體終于染上了不治之癥。他來東京看醫(yī)生,在我家住了幾天,到任職地附近的海邊療養(yǎng)了一段時間,但進(jìn)展并不順利,便向?qū)W校請了假,在家鄉(xiāng)海邊生活了兩年多。天氣好的時候好像會去畫油畫寫生。信的邊緣寫著這樣的事:即使真的想寫得很深入,卻因為嫌麻煩而敷衍了事,實在遺憾。那時候的素描本上有亮的妻子畫的亮的睡臉的寫生,很像,而且憔悴憔悴的樣子很寂寞。從去年春天開始惡化,五月住進(jìn)某醫(yī)院不久就去世了。臨終時平安無事。他向大家道謝,請求告辭,留下遺言說自己死后要給妻子自由,然后靜靜地離開了人世。
從聞訊回國的亮的弟弟那里聽到當(dāng)時的詳細(xì)情況時,我好像松了一口氣。當(dāng)?shù)弥獛缀躅A(yù)料之中的亮的死是那樣安詳、平靜、美麗時,不由自主地說出了“那太好了”這種不倫的話。隨之而來的是如水滲出來的寂寞感。
感覺就像本應(yīng)飄落卻沒有飄落的一片梧桐樹,在無風(fēng)的寧靜傍晚自動從枝頭飄落。感覺自己靈魂的一部分脆弱地脫落,永遠(yuǎn)迷失了。
亮的死訊傳來的時候,F(xiàn)町的朋友們對故人的紀(jì)念傾注了不同尋常的好意。生前就給予特別恩典,讓他安心療養(yǎng)的學(xué)校當(dāng)局,更是竭盡了最后的光榮。親近的人們?yōu)樗e辦了追悼會和遺作展覽會,甚至連因各種不可避免的故障而沒有一個親戚去處理的遺物也毫無遺憾地完成了。而且不能不感到這種處理中有一種濃厚的用心。
在其他的知友中,也有人寄來熱情洋溢的悼詞追懷中學(xué)時代交往的痕跡,還有人在倉田先生的著作卷首寫了誠懇的追悼文送給了他的遺屬,倉田先生應(yīng)該讀卻沒能讀。也有其他人。
我想在這里舉出這些人的名字來表達(dá)感謝之意。但考慮到我腦海中故人的某些資質(zhì),反而覺得不那樣做比較好。
只是,只要死者的記憶還沒有消失,遺族和家族對這些人的深厚感謝之情就不會消失。
就連年老而不幸的亮的母親也說:“雖然亮早夭了,但大家如此思念他,我絕對不會覺得不幸福。”我也真的這么想。
能得到別人如此的好意,肯定有什么東西能得到別人的好意。只要那個東西還留在這個世界上,死亡就不會那么寂寞。
亮沒有一個孩子。也有想要孩子的時代。我不知道知道死亡迫近的時候是怎么想的,只是覺得很寂寞吧。
亮確實是個軟弱的男人。但作為與自己的弱點戰(zhàn)斗的戰(zhàn)士,他絕對不弱。在看似平靜水面的外表下,不斷發(fā)生的旋渦有多么強(qiáng)烈,只要看看我現(xiàn)在手頭的各種手記就知道了。在這個意義上,亮也許是一個比那些天生強(qiáng)壯的人強(qiáng)上好幾倍的男人。
同時擁有亮那樣柔軟的心臟和他那樣透明的大腦,在現(xiàn)世也許是一件不幸的事。這也許就像沒有防御的要害暴露在箭彈雨中一樣。而且亮還背負(fù)著虛弱的健康無法背負(fù)的“生”的愿望。這種不協(xié)調(diào)的結(jié)合所帶來的種種苦惱,很早就使亮的心轉(zhuǎn)向了宗教。起初通過基督的教誨,最終進(jìn)入親鸞門下。我不知道他最后走了多遠(yuǎn),但我只能說,他短暫的一生并沒有那么短暫。